「中庭のある無垢な珪藻土の家」‐9‐一点を射抜く
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 タイトルにあげながら、ここまであまり触れてこなかったのが中庭です。



 外構工事が始まり、ようやく形状が見えてきました。



 LDKへの日差しは遮らず、外部からの目線は切りたい。

 中庭に要求される機能は、多くの場合変わりません。

 外構工事は別というケースもありますが、間違いなく一体のもの。

 「服はコーディネートしますが、帽子と靴は他の人に見てもらってください」とはなりません。



 外部に木製建具をつかわせてもらったのは、1999年の「紫竹の家」以来です。

 庇、シャッターの雨対策。防火設備から外れる位置にもってくるという法規対策。そしてクライアントの熱意が、実現に導いてくれました。



 やはり、木は職人が手加工できるため、こまかなところまで、こだわることができます。



 LDKの床養生もとれ、ようやくあらわれた節無しの檜。

 最後の最後まで、悩んでもらった箇所です。

 もちろん安価ということはなく、最終的にはクライアントが直接webで購入。支給してもらいました。



 階段の1段目にある引出し収納も、総檜づくりで家具職人の力作です。



 キッチン前のカウンターのニッチも、珪藻土が塗りまわされています。



 キッチン横にある和室に日がさしこむと、珪藻土のコテあとがより鮮明になります。

 よい素材や、職人の技量が問われる工事は、やはり金額がはります。

 しかし、クライントはただ安ければよいと思っている訳ではありません。

 素材、大きさ、形状と無限の選択肢があるなかで、最も総合点の高い一点を射抜かなければなりません。

 それが建築設計という仕事です。

 この難しさが面白さに変わったのは、自分の決断にクライアントが心から喜んでくれたときから。

 はじめに勇気、そして決断ありきなのです。

文責:守谷 昌紀



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白川郷でみた「結」の本質‐
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 先日、岐阜の荘川高原スキー場に行っていました。




 東海北陸道の高鷲インターを過ぎ、ひるがの高原サービスエリアの次のインターチェンジが荘川。

 かなりローカルな感じのスキー場ですが、ここにしたのには理由があります。



 ひとつは、久し振りにスノーボードをするためです。



 長男に水をあけられたボードですが、私の練習のため、広く、すいているところがよかったのです。



 まだ時々こけますが、娘のボーゲンにはついていけるようになりました。

 ようやく長男と同じくらいまできたでしょうか。



 なんとも昭和の匂いがするレストハウス。

 このほうが落ち着くのは昭和45年生まれなので当り前か。



 席の確保に苦心する必要もなしで、気楽に午後2時まで滑りました。

 ただ「シニア券(50歳以上)」の表記にたじろいでしまいました。

 もう数年で、ついにシニアなるというのが現実なのです。



 荘川まで北上してきたもうひとつの理由は、白川郷に寄るためです。

 前回白川郷に来たのは2008年の秋。娘が生まれて半年くらいでした。



 家族で47都道府県制覇を掲げていますが、いずれも4人で回るのが前提です。

 今年の夏休みには達成できそうですが、その次は日本の世界遺産制覇にしようと思っています。

 私は満足しているけれど、子供には記憶がない。

 これでは目的を果たしていないので、記憶にないところは、再訪しなければと思っているのです。



 夕方3時半に着きましたが、この時間でも続々と観光客が訪れます。

 私達もそのひとりですが。



 2008年にも訪れた、明善寺の庫裡に入ってきました。



 1階には囲炉裏があります。

 電気やガスなど無い時代、寒い冬は炉を中心とした暮らしがありました。



 内部は5層構造になっており、中央はすのこ状の床になっています。

 囲炉裏の暖気が登ってきて、茅葺屋根の内部を燻します。

 それらは、虫を駆除する役目もはたしているのです。



 また、茅葺屋根なので、窓は妻面(屋根のかかっていない側面)にしかありません。



 光はより貴重なものだったでしょう。



 2~4階はカイコを養殖する空間です。

 長い冬、大きな屋根裏を養蚕工場として活用されていたのです。



 1階にあるこの囲炉裏は暖をとるだけのものではなく、全ての中心でした。



 茅の葺き替えは、片面だけで1千万円以上かかるそうです。

 また、100人から200人の人手も必要になってきます。

 その膨大な人出は、「結(ゆい)」という労働交換によってまかなわれます。

 豪雪地帯である白川村は、長く他の地域と隔離されるため、それぞれの家庭だけで生きていくことは不可能でした。

 互いが助けあうことが、どうしても必要だったのです。

 「結」は日本各地にありました。沖縄では「ゆいま~る」です。

 「結」という思想は、農業国であった日本の原風景といえるのです。



 彼岸をむかえ、茅葺きの屋根からは雪解け水が茅の1本1本からしみ出し、滴となってしたたり落ちます。



 村内に張り巡らされた水路の流れは、春の訪れをしめすよう。

 本格的な春を迎える彼岸は、現代とは比べられない程、待ち遠しいものだったのではと思います。



 現代社会が失ったものを、簡単に断ずることはできません。

 しかし、若者の「まずは自分の権利があってこそ」という姿をみて、果たしてそれでよいのだろうかと思います。

 その時間そこにいれば、今度の葺き替えの時に手伝って貰える訳ではありません。

 役にたってこそ、屋根を葺いてこそなのです。

 もし手伝って貰えなければ、その先にあるものはたったひとつなのですから。



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「中庭のある無垢な珪藻土の家」‐8‐「リスク」か「 可能性」か
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 月末の引っ越しまで10日をきりました。



 現場は、壁仕上げに入っています。

 この計画はタイトルにあるとおり、壁は珪藻土塗。



 これらは全て左官職人の手で塗りあげられます。

 くるっとコテの上にネタを乗せる動きは、やはり職人技。



 まずは大きなコテで塗り付けます。



 そして、場所にあったコテに持ち替え、仕上げていくのです。


これは、壁と壁が90度でぶつかってくる入隅(いりすみ)を塗るコテ。

 出隅(ですみ)なら逆形状のコテを使います。



 昔は「ペンキ塗り立て」などの看板をよくみました。

 しかし最近では、人の手が出来を左右する仕上げは減る一方なのです。



 タイル工事もその部類に入るでしょうか。

 洗面台もいい感じに仕上がってきました。



 これはマグネットが付く塗料で塗られた子供部屋の壁。

 塗料に砂鉄が含まれています。

 これらは左官工事と似ていますが、タイル工事、塗装工事と、全て別の業種なのです。



 ご夫妻と内部を回りますが、壁をみるだけでも楽しそうです。



 自然素材の中で暮らしたいという強い思いが、無垢の床、珪藻土の壁を実現するに至りました。

 建物に入った時、いわゆる新築の家の匂いはしません。土の匂いというか、非常に優しいのです。

 左官工事、タイル工事、塗装工事と人の手が出来を左右すると書きました。

 建築家との家創りも全く同じです。自由がゆえ、互いの考え方がその成否に大きく影響を与えます。

 それらをリスクと呼ぶのか、可能性と呼ぶのか。

 「可能性」と思った人とだけ仕事をすることになるので、クライアントは皆ポジティブな人ばかり。

 課題、問題ももちろん噴出してきますが、基本、現場打合せは楽しいものです。

 それは可能性に満ちているからに他ならないのです。

文責:守谷 昌紀



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あべれいじ‐1359‐

2017年3月9日

あべれいじ‐1359‐
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 20代の後半、まだ競技スキーを本気でやっていた頃のことです。



 土曜日の夜、仕事が終わると信州のスキー場へ向かいます。

 昼過ぎに試合が終わり、大阪への帰路は500kmほど。帰りの中央道はFMを聴きながら車を走らせます。

 午後の日差しが眠気を誘うなか、DJは山下達郎、松任谷由実、福山雅治の順だったでしょうか。



 そのあと、ちょっとコミカルなラジオドラマがありました。

 2月のスキーの帰り、未だに続いていると知ったのです。

 「NISSANN あ、安部礼司」というタイトルらしく、サイトをみるとこうありました。

 この物語は、ごくごく普通であくまで平均的な45歳の安部礼司がトレンドの荒波に揉まれる姿と、それでも前向きに生きる姿を描いた勇気と成長のコメディである。

 昭和46年10月10日生45歳

 ご存知!Mr.フツー。仕事も恋も家庭も友情も、大事なことはすべてマンガから学んだと豪語する平成のお気楽サラリーマン代表。iPodには「今さらツボなセレクション」と題された懐かしい楽曲が2万曲近くも入っている。

 冬の黄昏時、ちょっと楽しみにしていたのを覚えています。

 静岡市出身の45歳、身長172cm。安部礼司=Average。作り手が思う、平均的日本人がよく分かります。

 「あ、安部礼司」は ” a average “か。面白いタイトルです。

 先日、元商社マンで、現在外資系の会社で働く人がこんなことを言っていました。

 「中国の平均年収は未だ日本より低いが、とびきりの金持ちが沢山いるだろう。インドネシアなんかも同じ構図だよ。平均という言葉がナンセンスだね」

 確かに、と納得したのです。





 北海道と沖縄。





 春と秋。





 夏と冬。





 都心部と農村部。

 平均することに全く意味はありません。

 「偏差値50」「一般的には」「平均寿命」と、それでも人は平均を意識するもの。勿論私も同じです。

 花をみて、どうして人間はこうも比べたがる?と槇原敬之は問いますが、やはり人間だからでしょう。

 そこから解き放たれたいし、張り合いのために基準を持っていたい。とかく人の心は複雑なのです。


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戦争と沖縄‐1357‐

2017年3月2日

戦争と沖縄‐1357‐
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 終戦から72年。

 戦争を、20代、30代で体験した祖父母は、すでに4人とも亡くなってしまいました。

 終戦時に8歳だった人が現在80歳。戦争体験を聞く機会は、この10年でほぼ無くなってしまいます。

 2月11日、12日と初めて沖縄を訪れましたが、戦争についてはやはり素通りできないと思っていました。



 那覇の目貫通りは国際通り。

 夕方だけなのか、歩行者天国になっていました。



 ある交差点では、ストリートパフォーマンスをしている若者がいます。

 平和な日曜午後の風景です。

 後ろに見えるのは安売りのドン・キホーテ。

 この建物は安藤忠雄の設計で、もとの名は「フェスティバル」だったと思います。

 今はベージュのペンキが塗られ、打ち放しの見る影もありません。しかしそれも時代の流れです。



 ここに書くのはあくまで私の歴史観、戦争観です。

 2ヶ所だけですが、沖縄戦の痕跡を訪ねてきました。

 旧海軍司令部豪は那覇市街を見下ろす、小高い山にあります。

 アメリカ軍の砲撃に耐えるため、山をくり抜いて作られた地下陣地でした。



 450mあったうちの300mが公開されていました。



 ここは司令官室。

 漆喰が施されています。



 ここは下士官兵員室。

 スリット状に影が見える部分に、元は木の支柱がありました。

 下士官は、立錐の余地なく立ったまま眠ったそうです。

 ツルハシの跡が生々しく残るこの空間で、立ったまま眠り、戦に勝てる訳などありません。



 そして幕僚室。

 壁に残るのは幕僚が手榴弾で自決した際、飛び散った破片の跡です。

 生々しく残るその跡を、正直、真正面から見ることは出来ませんでした。

 責任は自決してとる。

 その場にいればそれが正しいと私も思ったかもしれませんが、どんなことがあっても生きてこそです。

 それを分からなくするのが戦争でしょうか。



 もう1ヶ所は糸数アブチラガマ。

 那覇から南東へ10km程いった小高い丘の中腹にあります。



 先の戦争で、沖縄への上陸は本島中部、読谷村(よみたんそん)あたりから開始されました。

 アメリカ軍は徐々に南下してきたため、本島南部は最終の激戦地となりました。



 「ガマ」とは沖縄方言で、洞窟やくぼみを指します。

 「アブ」は深い、「チラ」は崖をさします。深い、深い、とても暗い洞窟でした。

 以前は撮影を許可していたそうですが、現在はガマの手前まで。やはりネット社会は難しとのことでした。

 内部には照明はなく、懐中電灯を手に1時間程かけて案内をしてくれます。

 この糸数アブチラガマは、もとは集落の非難指定豪だったのが、陣地豪となり、病院の分室となりました。

 病院分室となってからは、ひめゆり学徒もこの地に配備され、負傷兵の治療にあたります。

 トイレなどないので、糞尿を一斗缶に入れ、夜の間にガマの外へ捨てに行くのも彼女達の仕事だったそうです。

 衛生状態が悪いので、負傷兵の手や足が切断されたものも、彼女たちが外部へ捨てにいきました。

 人はそんな悲惨な日常にも慣れてしまうそうで、高校生くらいのひめゆり学徒も「これ○○さんの足だから、重くてかなわないね」とような会話を交わすようになっていったのです。

 人が人でなくなる。それが戦争なのではないでしょうか、とガイドの方が言っていました。

 最終的に軍からの撤退命令がでると、歩けない負傷兵と地元の人だけがここに残りました。

 アメリカ軍は入り口からガソリンを流し込み、火を放ちましたが、湿気が多い為全体へは広がらなかったそうです。

 それでも、ガマ内の天井は黒く焦げ、爆発したドラム缶の一部が、濡れた紙のように天井にへばりついていました。



 それはこの出口からすぐそこで起こったこと。地元の方の何人かが、そこで命を落としたのです。



 本土決戦に備える時間稼ぎのために「沖縄は捨て石にされた」と糸数アブチラガマのwebサイトにはあります。

 更にこうあります。

 沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2干人、一般住民9万4千人が亡くなりました。

 当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、沖縄県民の4人に1人が亡くなったことになります。



 日本で唯一、地上戦を経験した沖縄。

 アメリカ軍、日本軍、沖縄県民が入り乱れた、終戦間際は地獄絵図だったといいます。

 スパイを疑われ、殺された県民もいたとのことでした。

 沖縄戦で亡くなった日本軍の中で、沖縄の次に多かった出身地は、北海道だそうです。

 ガイドの方が「内地という言葉があるとおり、やはり沖縄、北海道など、地方の貧しい人達の多くが命を落としたのかもしれません」と言っておられました。

 大阪に住んでいて、「内地」という言葉を使うことはありません。

 その音には、ある種の不公平感が含まれていることを、私達は認識しなければなりません。



 サトウキビ畑の中にぽっかりと空いた、糸数アブチラガマ。

 案内の途中で「いちど全て懐中電灯を消してみましょうか」と言う場面がありました。

 多くの負傷兵が見捨てられ、出入口をアメリカ軍に塞がれ、火を放たれ、真っ暗闇のなかで沢山の人が亡くなっていきました。

 日本の終戦は8月15日ですが、このガマでの終戦は8月22日。それまでここに立てこもっていたのですが、アメリカ軍に収容され、負傷兵も数名が命をとりとめました。

 身動きできない真っ暗闇の中で聞こえるのは、わずかに残る負傷兵のうめき声と、自らの傷口をウジが食う音だけだそうです。

 そんな断末魔の世界を、なぜ多くの市民が経験しなければならなかったのか。

 作家・司馬遼太郎は青年期にこの戦争を経験しました。

 18歳で学徒動員されますが、栃木県の地で終戦を迎えます。

 召集を受け、一旦は死さえ覚悟した若き日の司馬遼太郎は、戦争が劣勢になってくると理不尽な場面にでくわします。

 本土決戦を前にした日本の軍部は、命をかけて国民を守るどころか、最終的に自らの保身を優先するような命令を下すのです。

 そのとき彼は「日本人というのは、こんな国民だったのか。いやそうではかったはずだ。戦国時代は、江戸時代は、せめて明治時代以前はそうではなかった・・・・・・」と憤ります。

 それから日本が少しでも良くなればと、戦国時代、江戸、幕末の志士を描くことになるのです。



 戦争に導いた人達をリーダーとよんで良いのか分かりません。

 それでも、国にしろ、組織にしろ、リーダーの判断は、多くの人達に良くも悪くも影響を与えます。

 アブチラガマでは、指令室になる予定だったところは、ガマの奥深くで、敵の侵入を防ぐため様々な工夫がされていました。

 一方、地元住民があてがわれたスペースは、出口からすぐのところ。

 一番奥が駄目、入り口側が良い、というような単純な問題ではありませんが、覚悟と愛情のないリーダーは組織を不幸にします。

 ガイドの方の言葉にトゲや恨みは感じませんでした。

 しかし、現実に捨て石にされたという事実と記憶が変わることはありません。

 美しく、やはり痛い、はじめての沖縄だったのです。




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枚方「さかたファミリー歯科クリニック」‐2‐上等上棟
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 大安の昨日、「さかたファミリー歯科クリニック」が棟上げを迎えました。



 幹線道路沿いに建ちますが、あらためて大きなクリニックだと感じます。



 その大工工事をしきってくれる棟梁は41歳。

 脂がのりきっている感じです。



 この日は、4人のチームを指揮しての建方でした。



 正面開口部は、このクリニックの顔。

 棟梁とベテラン大工の2人が、手慣れた動きで、梁を叩き込んでいきます。



 仕事ができる人は、みていてもリズムがいい。

 それを確認するだけで、信頼できそうだなと思うのです。



 この大きな開口部は、エントランスの吹抜けに、北側の安定した光を供給してくれるはずです。



 午後4時頃、垂木を固定しているところまで見届けて、次の打合せに移動しました。



 棟梁とチームを組んでいた、ちょっとこわもてのベテラン大工。

 屋根上に声をかけると、思いもよらずはにかんだ笑顔で応えてくれました。

 自分の現場でなければ、絶対声をかけないくらいの迫力は持ち合わせていました。

 ちょっと不器用で、腕自慢が集まる現場が、私のもう1つの仕事場です。

 もし、全てロボットだけの現場になったら、違う仕事を考えます。

 やはり建築は、人がつくるから上等なのです。

文責:守谷 昌紀


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あなたは絶対幸せになる‐1356‐
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 土曜日はOhanaへ行っていました。

 私が設計させてもらった写真スタジオです。



 2009年の秋に竣工したので、現在8年目に入りました。

 京阪萱島駅から徒歩3分ですが、住宅街の中にあり環境はとても静かです。



 何度も通った京阪萱島駅。

 「近畿の駅百選」に選ばれています。



 この大クスノキは萱島神社の御神木で、神社と御神木ありきの駅なのです。



 元の店舗は、この駅の高架下にありました。



 丁度その向かいに、細い路地があります。



 そこを抜けるとOhanaが見えてきます。



 エントランスの黄色い扉も、床材のピンコロも、全てに思い入れがあります。



 竣工時は2m程度だったオリーブ。



 現在は4m程に成長しました。

 予算が厳しかったので、古川庭樹園までクライアントと一緒に買いに行き、一緒に植えたものです。



 「センスの良い知人宅のリビング」と設定したレセプション。

 緑も増え、まさにOhana色に染まっています。



 2階スタジオからもオリーブが見えるようになり、「ようやく背景として使えるようになってきたんですよ」と。

 クライアントは、保育園のアルバム撮影もしています。

 目指すのは、130名全員が笑顔のアルバム。

 撮影前の遠足では、笑わせるのが難しそうな園児と積極的に遊ぶそうです。

 そして撮影当日。

 その時の「仲良し」を武器に、懇親のギャグを連発するのです。

 同業の人が「どうやったら、全員笑顔の顔写真がとれるんだ」と聞いたそうです。

 これが私のクライアントだと胸を張りたくなりました。

 今回はある相談で伺いましたが、そのお題は、決して簡単なものではありませんでした。

 しかし「この人のためなら何とかしよう」と思います。

 そんな人とばかり仕事をしてきたので、私も成長できたし、幸せな仕事人生だと心から思うのです。



 その後、予約してくれていた京橋の焼き鳥屋さんへ移動しました。

 トイレへの通路は極めて狭いですが、最高に美味しい店だったのです。

 その席で、長男の合格祝いを頂きました。そして、この日がクライアントの誕生日だったことを思い出したのです。

 まったく、こういったことに気がつかない私ですがこれだけは言えます。

 あなたは絶対幸せになる。ならなければおかしい。

 偉そうですが本当にそう思うのです。




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建築家にとって一番大切なもの‐1355‐
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 今月の初め、建築家・高松伸さんとお会いする機会がありました。



 あるホテルで、フレンチをご一緒させて頂いたのです。

 高松伸さんは京都大学の名誉教授で、私達の年代から見れば、レジェンドと言ってよい存在です。

 2年前、母校での文化祭に呼んでもらいました。

「卒業生によるプロフェッショナル相談会」というイベントに参加するためです。

 そこに参加していた大先輩から「高松先生と食事をするけど、ご一緒してみる?」と声をかけて貰ったのです。



 先日行った沖縄の浦添市にある「国立劇場おきなわ」。

 2003年の作品です。



 何と言っても目を引くのが反りかえった外観です。

 竹を編んだような外皮はプレキャストコンクリート製で、軒下空間をつくっています。



 これは沖縄の民家をコンセプトに取り入れたものでした。



 2007年完成のナンバ・ヒップス。

 これは知っている、という人も多いのでは。

 現在は無くなりましたが、道頓堀と心斎橋筋商店街の交点にあった、キリンプラザ大阪も1987年の作品です。



 2015年のシルバーウィークは長崎、佐賀をまわりました。

 長崎港ターミナルは、1995年の作品。



 グラバー邸から見下ろした景色ですが、出島エリアでも存在感を放っています。



 島根県伯耆町にある、植田正治写真美術館も1995年の作品。

 2013年の夏季休暇旅行で訪れました。

 逆さ富士ならぬ、逆さ大山が水面に映ります。



 京都駅から歩いて行ける東本願寺。

 その参拝接待所は地下に埋められています。



 こちらも高松伸さんの設計で1998年の作品。

 スケール感、造形の自由さ。間違いなく日本の建築界を牽引してきたトップランナーです。

 子供みたいな質問をして、場をしらけさせないようにと思っていましたが、どうしても聞きたいことを質問してみました。

 「ご自身が一番納得しているのはどの作品ですか」

 「それは、今設計している作品ですね。未来の作品がそうだと思っています」

 即答でした。



 台湾でも、ビッグプロジェクトが完成、また進行中とのこと。

 そのヒストリーを聞くと、仕事の成功とは本当に青天井だと感じます。

 高松伸さんは食事会のあと京都に帰られましたが、会でご一緒した方と朝方まで飲んでいました。

 何をして成功と言うのかは、人によって違うかもしれません。

 しかし、誰がみても成功という成功は間違いなく成功です。

 カリスマやレジェンドという言葉を軽々しく使うつもりはありまあせんが、そういった人達のみに許される呼称なのでしょう。

 それらを分ける分岐点は、やはり日々の行いのような気がします。

 「仕事とは整理整頓に尽きると所員には教えていますよ」と仰っていました。

 もうひとつの質問です。

 「建築家にとって、一番大切なものは何ですか」

 「クライアントですね」

 クライアントの希望をかなえてこそ建築家だものね、と。

 成功、成長と感謝は同じカテゴリーにない言葉だと思っていましたが、どうもそうではないようです。

 トップランナーが発する言葉の中で「感謝」は最も頻度の高い言葉だと思います。

 最高にモチベーションが上がった夜だったのです。


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「中庭のある無垢な珪藻土の家」‐6‐現場訪問大歓迎
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 暦の上では春ですが、やはり寒い日が続きます。



 大人でも寒いので、お子さんはなお寒いはず。



 この日は、お子さん2人とご両親、ご兄妹も遊びにきてきくれました。

 現場で2時間も、3時間もご夫妻を拘束するので、その間の子守りも含めて、皆さんで遊びにきてくれたのです。



 テンションの上がった3歳のお姉ちゃんは、かなり薄着でした。

 やはり子供は風の子でした。

 ハシゴを降りる時は、おじいちゃんの抱っこで。



 1歳半の弟君は、お母さんの抱っこで。

 何とも幸せそうな笑顔です。



 そして、姪っ子さんも遊びにきてくれました。



 仲良し女の子組は、記念に壁へお絵かきしてもらいました。



 壁内で見えなくなりますが、ここい確かに成長の手跡が残っています。



 これはスタッフの田辺さんからのプレゼント。

 断熱材で出来たお人形です。



 私達が一番お会いするのは、クライアントであるご夫妻です。

 クライアントのご両親からすれば、お子さん、お孫さんが暮らす家が、どんなものになるのか、期待半分、不安半分だと思います。

 私達、また施工会社への思いも、期待半分、不安半分。

 もう少し正直に言えば、不安のほうが大きいと思います。

 知らない、分からないは、不安を大きくこそすれ、信用側には転びません。

 不安を小さくする、解消する方法は1つだけ。お会いする、みていただく。これに尽きるのです。

 よって、どんな時でも現場訪問は大歓迎なのです。

 お孫さんを抱っこするおじいちゃん。これ程微笑ましい光景は、そうありません。

 家創りは、親族をあげてのまさに総力戦なのです。

文責:守谷 昌紀




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沖縄の旅<後編>‐1353‐
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 2月12日(日)沖縄2日目です。

 予報は曇りでしたが、概ね晴れてくれました。



 恩納村のホテルをあとにし、海岸沿いの国道58号線を北上します。



 1時間弱で名護市役所に到着。

 1981年、象設計集団の作品で、日本建築学会作品賞を受賞しています。



 建物まわりには整列されたグリッド状の回廊がめぐらされ、樹々が建物を覆います。



 象設計集団はバナキュラー(土着的)な建築設計で知られ、この名護市庁舎も、沖縄の民家を手本としました。



 その木漏れ日は、極めて優しいのです。



 背面に回ると全く違った表情を見せてくれます。

 強い日差しと相まってか、イスラム圏の建築を思わせます。



 各柱、梁の交点にシーサーが鎮座しています。



 その全てのシーサーは、ひとつとして同じものがありません。



 建築を覆う樹々のなかから、小鳥のさえずりが聞こえてきます。

 建築と自然。相反するものが、廃墟でなく融合している。

 日本の市庁舎の中で、最も美しいものかもしれません。



 名護をあとにし、今度は東海岸を目指します。

 平安座島(へんざじま)の海中道路。



 子供達は海の中を走ると期待していましたが、もちろんそれは無理。

 しかし、海と道が近く運転していても爽快です。



 さらに橋を渡り、浜比嘉島にも立ち寄ってきました。

 近くの港をのぞくと本物の海人に初遭遇。



 昔ながらの民家ばかりではありませんが、それでも沖縄の風土を受け継いだ民家が数多く残っています。



 石敢當(いしがんどう)と読むそうですが、交差点などにおく魔除けだそうです。

 街中でもかなりの頻度で見ました。



 空家問題は、全国的なものですが、沖縄の空家は深く樹々に覆われたものが沢山ありました。



 北海道にも沢山の空家がありましたが、ここまでになるには、かなりの時間がかかるでしょう。



 駐車場に停まっていた車のホイールがちょっと変な感じでした。

 近くでみてみると、錆びきっているものにカバーが付けられていました。



 沖縄は太陽も、潮風も、全てが強く、それらは人工物にダメージを与えるでしょう。



 日本の自然は、欧米の自然に比べると「強い」と言えます。

 高温多湿で、放っておけば空き地は草木が生えてきますが、これはどこでも起こることではありません。

 その日本の中で、沖縄は最も自然の強い地域です。



 沖縄での台風を体験したことはありませんが、その厳しく美しい自然が、建築の形態を受け継がせるのではないかと思うのです。



 一番心に残ったのは、やはり自然の美しさでした。

 人は自然を消費する罪深い生き物です。さらに私の仕事は、人工物を創ることです。

 沖縄の建築にみた、畏敬であったり、敬意を込めた物創りをしたいと思います。

 青い空、澄んだ海、濃い緑のガジュマル、深紅のハイビスカス、赤瓦に白い漆喰。

 初めての沖縄は、思った以上に刺激の多いものでした。

 今度は泳げる季節に来てみたいと思います。

<目指せ、家族で47都道府県制覇>
43/47 【】はまだ

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株式会社一級建築士事務所アトリエm

プロフィール

株式会社一級建築士事務所アトリエm

夢は必ず実現する、してみせる。

一級建築士  守谷 昌紀 (モリタニ マサキ) ・2013年1月6日 『匠が選ぶビフォーアフター大賞2012』空間アイデア部門賞受賞 ・雑誌は多数掲載→http://www.atelier-m.com/pub.html 1970年 大阪市平野区生...

株式会社一級建築士事務所アトリエmの事例

  • 加美の家

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  • イタウバハウス

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  • 住之江の元長屋改修 『大改造!!劇的ビフォーアフター』放映

    住之江の元長屋改修 『大改造!!劇的ビフォーアフター』放映

  • kayashima photo studio Ohana

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  • つるみ歯科クリニック

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